山口県には、第4の滑走路が存在します。岩国錦帯橋空港、山口宇部空港、防府北基地——そして4つ目が、下関市にある海上自衛隊小月航空基地です。

小月航空基地の概要
小月航空基地は、山口県下関市松屋本町に位置する海上自衛隊の飛行場です。滑走路は899m×46mと1,201m×61mの2本。現状で利用可能な機材は限定的ですが、関門海峡に面した立地にあります。
山陽新幹線・新下関駅からは約16.3km、自動車で約27分の距離です。
そもそもは民間空港「下関飛行場」だった
小月航空基地を構成する飛行場は、当初、地元下関市や下関商工会議所などの要望を受けて、逓信省所管の民間空港「下関飛行場(下関空港)」として着工されたものです。
1937年(昭和12年)に飛行場建設予算が割り当てられて着工。当初計画では建設費100万円を見込み、うち50万円を国庫、残る50万円を地元負担分として山口県と下関市で分担し、工期2箇年を予定していました。
当時、大日本帝国内の空港は東京・大阪・福岡・蔚山・京城・大連・松江・富山・新潟・名古屋の10箇所。一方で下関市は乗船客数が帝国内1位の海上交通の拠点であり、国際航空路の拠点としても適地であるという趣旨でした。
予定されていた航空路線
- 西日本路線:大阪第二飛行場 − 米子飛行場 − 下関飛行場 − 福岡第一飛行場
- 国際路線:大邱経由で満州方面へ
- 市内アクセス:下関駅前に営業所を設置し、連絡バスを運行
飛行場開港に向けた地元の期待は大きなものでした。『朝日年鑑1940年版』は下関市の項で、飛行場の完成を控えて市勢の躍進に期待が寄せられていると報じています。また下関観光協会は『下関観光要覧 昭和十四年版』で、建設中の飛行場を「国際下関飛行場」として取り上げ、陸・海・空の立体的な連絡が完成すると喧伝しました。
小月航空基地のあゆみ
- 1937年(昭和12年) 民間空港「下関飛行場」として着工
- 1940年(昭和15年) 旧陸軍の下関陸軍飛行場として竣工
- 1941年(昭和16年) 小月飛行場と呼称されるようになる
- 1944年(昭和19年) 第12飛行師団司令部が配置され、本土防空戦に従軍
- 1948年(昭和23年) 米軍およびニュージーランド軍が駐留
- 1950年(昭和25年) 米軍が接収を解除し、警察予備隊小月訓練所が開設
- 1952年(昭和27年) 保安隊小月駐屯地に改称
- 1954年(昭和29年) 陸上自衛隊小月駐屯地が開設
戦後の「下関空港」誘致運動
1950年(昭和25年)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本国内の民間航空路開設を許可したことを受け、山口県内で飛行場を有する岩国市・防府市とともに、下関市も空港誘致運動を開始しました。
第二次指定においては、岩国と下関(小月)に民間航空路の開設が許可されます。しかし、保安庁が当基地の全面使用を要求したことで、軍用飛行場として存続することになりました。
その後も下関商工会議所は基地の共用化による民間航空路誘致を目指し、山口県が新規空港建設を計画した時期には、1963年(昭和38年)5月、1964年(昭和39年)11月と続けて下関市長へ要望書を提出しています。ただ、「下関空港」としての供用が実現することはありませんでした。
まとめ
関門トンネルが開通する前、大陸への玄関口であった下関市と、今日の下関市を単純に比較することには無理があるかもしれません。それでも、地域の先人たちの空港誘致に対する情熱は、資料を通じて十分に伝わってきます。
そもそも小月航空基地は、1937年に民間空港として着工されたものであり、建設資金も国と地元が折半して負担しています。当時の下関観光協会は、新しい飛行場を「国際下関飛行場」と呼び、陸・海・空の立体的な連絡の完成を掲げていました。
先人の築いた地域の遺産を活かし、自分たちの地域を交通の拠点としてその存在価値を高めたい。地域の豊かさは自分たちで築くものであり、誰かが与えてくれるものではなく、自分たちで追い求めていく必要があると思います。防府北基地、小月航空基地の官民共用化を求めます。
関門海峡に面した立地を生かした、今後の活用可能性について研究していきます。
※「山口県第4空港」および小月航空基地の官民共用化は、大殿経済研究所による構想・提案であり、現在計画が決定しているものではありません。本記事に記載した距離・所要時間は目安です。